昭和39年12月8日 夜の御理解
今朝から頂きます。御理解の中に辛抱の徳と言うことを頂きました。これは、辛抱の徳と言うのは、ただ辛抱しております。と言うのではなく、もう辛抱がしきれないと言う、その先の辛抱にこそ辛抱の徳と言うのが頂けると言う御理解でした。ですから、その、もう辛抱が出来ないと言う、その先が辛抱である。
それまでは、だから辛抱でないと言うことになりますネ。辛抱の徳を受けると言う事に、おいての辛抱は、そうゆうことになるんですネ。そうゆう場合でしょうね。泣く泣く辛抱しいしいにと言うのは、「ネ-」泣く泣く辛抱しいしいに辛抱さして頂いておりましたら、そこで、私は「ア-」その泣く泣く辛抱もありがたいのですけれども、その辛抱がしきれない様な辛抱もです。ありがたく辛抱さしてもらうと元気な心で、そこを辛抱さしてもらうとその先に、そのありがたいと言う辛抱、しぬかして頂いてありがたかったと言う答えを出していくそれが私くしは、積もり積もって辛抱の徳になるのだと今朝、そんなことを頂いたのですけど、それをまた、皆さんに聞いてもらっているわけなんですけどネ。
私は、辛抱の徳を身に受けなければいけない、どうぞ、そのことについては、いわば、さまざまな角度から今朝の御理解に出ておりますから一遍聞いて頂きたいと思んですけど、きのう、おとといでした。
私くしが北野の大祭におかげを頂きますから、いつも、久保山先生が午前中私しが留守中奉仕されます。
その日だけは、私くしが、神様にちょっと頂いたこともございましたから、古賀先生、今日は、あんたが奉仕さして頂く、今日はしっかり奉仕さして頂かんと、いかんよとそれをたとえばまぁ。
古賀先生としては、神の声と頂き、御神明と頂いたんですネ。
そして、私がかえりますまで、これで一生懸命奉仕が出来た。
ところがなるほど、そのよういならないお取次ばかりを、次、次として頂いておる、しかも、その自分ながら気持ちのようような、お取次をさして頂いた。お取次を願ったものもおかげ頂いた。なら、お取次さして頂いたものも、気持ちのよいようなおかげを頂いた。 その日は、体が気つくて昼から休まして頂こうと思っておったところがです。午前中あの一生懸命の奉仕をさしてもらい思いもかけないお取次やら、また自分でもとてもこれは、自分のお取次じゃない親先生の御徳、神様の御徳金光大神の御徳でなからなければこんげなことは出来まいと言う様なお取次をさして、もろうてからありがとうなってきた。
休もうと思ったばってんそれこそ自分の五体になにか新しい血がいれかわる感じがしたと、おかげできのうは、終日その休みをせずに、おかげを頂いたと言うわけなんですね。
ですから、そらゆうような辛抱になってくると、ありがたいでしょうが辛抱が、いわば泣く泣でなくしてからもしきれないような出来ないようなところをおかげを頂けば楽に、ありがたく辛抱しぬかして頂くことが出来ると言うこと。
これが、私は辛抱の徳にならないはずはないと思うのですね。同時にですね。例えば、御神明と思わなければいけんですね。
私は、今朝そのことの辛抱と言う御理解を頂いております。私くしは日々、朝の御理解を終日そのことに、焦点をおいて、おかげ頂きます。
今日は言うなら、辛抱と言うことでしたから、もう今日は本当に一生懸命、色んな意味で辛抱させて、昨夜私くしは、二時でした、休まして頂いたのが、けれども今日とゆう今日は、私くしは、コタツの中にはいって寝ることもしませんでしたね。これはですね。
朝の御理解を私くしは御神明神様の御声として私くし自信が頂いておるからなんです。
これを行ずる以外にないこれを行することに久保山先生じゃないけれど、お取次が出来けたしかも、そうゆう尊い御用に使うて頂いたと言うことが、ありがたかった、ありがたかったから休まして頂こう、いわば体がきつかったのが新しい血が入れかわった様なおかげで後の半日が、また御用が出来たとこう言っておられます。
私くしは辛抱の徳と言った様そういった「ア-」日々がくり返されて、はじめて辛抱の徳が身につくのじゃなかろうかとこう思うんですね。
今日は、親教会の月次祭、10日の月次祭がございました。
今日お参りしましたらたった、二人しかお参りがあっとりません。それでも、私くし、このごろ、最近親教会で話さして頂いたんですしばらく、そしたら御理解を頂いておられる二人のおばあちゃんが参っておられましたから、私は、お祭りが済んだら、かわべ先生、どうでもこうでもお話しをして下さいと、親先生は、お結界で聞いておられました。
それから私くし、この前と同じ話しをさして頂いたんです。親先生も、ニコニコして聞きよんなさいました。その二人の方もですわねもう本当に、また改まって、改まって頂いたような、頂くふうで頂いて下さった。
それは、ある時には、親先生がちょうど夕方、お参りしました。もう大変な夕立のあった後でした。もう夕立があがってすがすがしい、そのオ-気分でおられる所をちょうどお参りしあわせたんですね。したら、今日はなぁ「大坪さん」あたしは、神様に、久しぶりのおしめりだったから、神様にお礼申し上げさして頂いたらね、おしめりが、ありがたいならおひでりもありがたいのぞと御祈念中に「ネ-」親先生からいつかこうゆうような御理解を頂いた。いうなら、おしめりがありがたいならばおひでりも、ありがたいのじゃと言うこと、自分の、おもうようになることだけありがたいなら思うように、ならんこともありがたいのだと言うことその話しをこの前さして頂いて今日もまた、その話しをさして頂いたんです。
そして今朝の御理解の辛抱と言うことに、むすんでお話しさして頂いた、たとえば、それは、たしかにそうなんですけど降ることもおかげならば照ることもおかげなんです。
けれども自分の都合のよい方をこう、おかげと思うのです。
そして自分の思うようならないのは、おかげじゃないと思うんです。誰だってそうなんです。
けれどもここの所が、辛抱なんです。古賀先生がきのう、おととい、おかげを頂いた様な調子でたとえば朝に頂いておる御理解をそのまま、御神明であり神の声として頂いて行じぬかして頂くところに、かならず体験が生まれる。
今日は、しっかりしとかなければ「ダメ」ですよと、私しは、くり返し言うてやらして頂いたら、そのとうりのお取次をさしてもらわねばならぬようなイヤなことが次、次あったしかも、気持ちのよいほどにありがたいお取次が出来た、だからありがたい御神明をありがたいしに受けたからなんです。ですから朝の御祈念に参られた方ならば、朝の御祈念のち今日一日の行の上に表わす、そこに焦点をおかなければいけません。
又、時々しか参ってこんならばですね。時々でもよいから、その時々に、ここはどう思うて心に頂いたことを次のお参りまでは続けぬかねばいけない。
そこに生まれるのは必ず体験です。その体験がです。どうゆう辛抱のしにくい所でもその体験がそのおかげなんです。
新しいこの心に又は、体に新しい血が蘇ってくるような元気な心が出てそのことが受けられる、降っても照ってもいわゆるありがたいとゆうような受けかたが出ける。
もちろん、そうゆうばかりにはまいりません。やはり本当に歯をくいしばらなければおられないような、言うなら、泣く泣くと言うようなこともあります。
けれども、それだけでは、あまりにもじゅっない。そのじゅっない、けれども、そうゆう時は、私くしどもが本気で神様の御言葉を行じぬきよらない時だとまず悟らしてもらわなければいけません。 そして、本気で私くしはお教を自分の生活の上に行じぬき、表わしていかなければいけない。-----?ありがたいと心でするならばもうそれこそもう泣き泣き辛抱しなければならないようなことでもありがたく辛抱しぬくことが出来る。
そこに生まれるのは、神様の働きと言うものがありがたいものだなぁという心にしみこんでくる様な「ア-」思いの中に一日過ごすことが出来る。それが、積もり積もって辛抱の徳と言うことになるのではないでしょうかね。互い辛抱はしよります。確かに、けれども辛抱の徳の受けられる様な辛抱をしとらんような気がするんですけれどね。おかげ頂き…。